見るということは「問う」こと
見えていないものだらけ
人は簡単なことで、錯覚してしまいます。
錯覚というと特別なものという感じがしますが、思い込んでしまうと
錯覚につながってしまいます。
人間はあると思うと、見えないものが見えたり、
ないと思うと、明らかにあるものを見落としてしまったりしてしまいます。
人は自分が見たいように世界を見ていることに気づきません。
飛行機の運航は、錯覚との戦いです。
着陸する時、着陸するものだと思うと、
誘導路を滑走路だと思い込むし、
滑走路上に飛行機がいても、見えないし、
離陸したいと思っていると、
誘導路も滑走路だと思い込むし、
大きなバツ印がついている共用前の滑走路でも降りてしまう。
それを防ぐためには、一人ではほとんど無理なんですね。
チームで見落としを防いだり、
勘違いをなくすようにしています。
だから、一人で考えなければならない自分のこととなると、からっきし鈍くなります。
物事を見るということは、呼吸と同じように、
無意識にしていていますよね。
普通は見えてると思っていることになんの疑いも持たないですね。
また自分が正しいと思って受け入れてしまうと
その目線で物事を見てしまいます。
ちょっと前に読んだ本で、ユーロが崩壊、中国経済が破綻する
そんな本を読んで、信じてしまうと、そのように世界のニュースを見てしまう。
気づいたのですが、そんな本を書く人って
いつも何かあると、悪く悪くなるように煽り立てた本を書いてます。
そんな思い込みをふせぐためには、
無意識にやっていることに、意識的になるということかもしれません。
呼吸も意識することで
劇的な変化を起こしますよね。
深呼吸だけでも、心が落ち着くし、視野も広くなります。
また、ものを見るということは、
大人になればなるほど、
気分と、感情のフィルターを通して世界を見ています。
嫌いな人からのメールは、
何が書いてあっても腹が立つし、
バカにしてる人が何をやっても不満になります。
綾小路きみまろさんの漫談で、
「コーヒーにする?紅茶にする?」
という夫婦の会話でも、年をとると喧嘩腰に聞こえるというものがありますが、
お互いにこの亭主は?とかこのオバハンは?という意識でものを見ていると
そうなってしまうのです。
また、ものを見るときに、
大人になればなるほど、
知識でものを見てしまいます。
これは小さいはずだとか、これはこうであるべきだとか、
「その人そのもの」を見ているのではなく、
子供は、女は、男は、部長は、課長はという知識で知識を見ているのです。
真実を見るためには、見ることを学ばなくては、
ものが見えなくなっていることにも気づかなくなってしまっています。
錯覚を防ぎ、思い込みフィルターを変えるためには、
自問することですね。
ものを見てないということを意識して
見えないことを見ようとする意識で、
自問すること。
自分の思いは本当か?
なぜ、こうなるのだろ?
なんでだろう?
これをしなければどうなるのだろう?
どういう経緯でこうなったのだろう?
なぜ、このことが気になるのだろう?
といてら渋谷
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